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久留米市内遺跡群

https://jdcat.jsps.go.jp/records/198125
https://jdcat.jsps.go.jp/records/198125
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公開日 2025-04-23
タイトル 久留米市内遺跡群
作成者 小澤,太郎
作成者 神保,公久
作成者 熊代,昌之
作成者 江頭,俊介
作成者 廣木,誠
作成者 西,拓巳
Distributor
寄与者 奈良文化財研究所
Nara National Research Institute for Cultural Properties
URI https://sitereports.nabunken.go.jp/57945
アクセス権 open access
Abstract
内容記述 久留米市文化財調査報告書
埋蔵文化財(遺跡等)-発掘調査・分布調査・資料調査等
(塚崎遺跡 第1次)
調査地は、広川左岸域に形成された標高6mの低台地上に位置する。江戸時代に細形銅剣2本が出土した御廟塚貝塚の西側に所在する。弥生時代前期末~中期前半ころを中心に、一部後期にいたる土坑や溝、掘立柱建物を構成すると考えられる柱穴などを検出した。遺物は主に土坑から、土器やせっきなど生活用品が出土している。
(西海道跡 第3次)
調査地の北東約1.3㎞の地点で実施された車地遺跡第3次調査では、路面幅約9mで両側溝を持つ道路遺構が検出されている。また、南方約300mの地点は「車路」の地名が残り、木下良氏によって歴史地理学的な見地から、西海道路線が推定されていた。調査地点はこの推定路線上にあたり、西流する野添川の急流路と交差する位置にある。しかし、関連遺構は全く検出されなかった。河川の作用によって流出したか、もしくは地下げで削平されたのか、あるいはそれらが複合原因となり消滅したのか定かではない。
(善導寺境内遺跡 第10次)
調査地は善導寺本堂の裏手にあたり、巨瀬川の氾濫原に面する低位段丘端部に位置する。これより北側は段丘崖となっており、急激に標高を下げる。このような状況であるためか、遺構密度は低く、かつ深さも浅く残りは極めて悪い。情報量も極めて少ないが、これらの遺構は、SK10からの出土遺物により、中世頃の年代が考えられるのみである。
(久留米城下町遺跡 第19次)
城下町の屋敷境を確認することを目的とした調査である。片岩を6~7段ほど平積みした石組溝1条を検出した。存続年代は、18世紀末~19世紀中頃である。溝埋没後の明治以降は、石組溝間に石列を並べ境界を標示している。この石組溝SD1は、天保年間久留米城下図にある築島町と新道の境界線に比定される。この両町の間には道路がと描かれているため、SD1は道路東側の側溝となろう。
(白口経塚遺跡 第8次)
本調査地は、西海道に近い微高地に位置し、上津荒木川と広川に挟まれた水陸の交通の要所である。道と川に挟まれたこの三角地帯には、律令期の集落遺跡が集中しており、西方の三潴郡衙と北東の筑後国府とを結ぶ重要な役割を持っていたことがうかがえる。検出遺構は、溝1条と掘立柱建物の柱穴と考えられるピットである。調査区が狭いため、建物の規模や配置は明らかでないが、律令期の荒木郷に含まれる集落であった可能性が高い。
(辻遺跡 第6次)
調査地は、久留米市街地の北東部に位置し、筑後川左岸の氾濫原に突出した低位段丘上に立地する。標高は13.0mを測る。調査の結果、掘立柱建物1棟とピット多数を検出した。掘立柱建物については、平面形式1間✕1間以上の規模で、出土遺物から弥生時代後期の所産と推定される。過去の調査結果から本遺跡では、弥生時代中期の甕棺墓群が営まれる以前に、比較的短期間居住域が広がっていたものと考えられた。しかし、今回の調査の結果、弥生時代後期の掘立柱建物を検出しえたことから、中期の甕棺墓群が営まれて以降も、再び集落が形成されることが判明した。
(南薫西遺跡 第7次)
調査地は、筑後川左岸に形成された標高14m低台地上に位置する。周辺には弥生時代の集落や甕棺墓群が数多く認められる。今回は8~9世紀の土坑3基、溝1条などが検出され、転用硯や布目瓦の出土から、筑後国御井郡櫛原郷における中心的な集落と思われる。
(正覚山浄土寺飯田庵跡 第1次)
調査地は、巨瀬川左岸の自然堤防上に位置し、建保6年(1218年)開山とされる正覚山浄土寺の伝承地である。中世以降の掘立柱建物1基のほか、旧山本郡の条里と同じく、西へ2°偏位する溝を検出し、12世紀ごろまで条里地割の溝が存続していた可能性がある。また、13~14世紀の輸入陶磁器が出土し、鎌倉時代に集落があったと思われる。
(久留米城外郭遺跡 第20次)
調査地は、久留米城外郭の北東隅部にあたる。ここは、土塁と掘を挟んで東に位置する櫛原小路から城内へ出入りする櫛原口であり、枡形を形成する土塁の検出を目的として調査した。結果、現地表下には良好な状態で土塁積み土が残存していることが判明した。外郭北辺土塁は、土嚢を基礎に、外堀の掘削土である砂礫を積み上げている状況が見られた。枡形の土塁は、これに粘土混じりの土を託して積み上げている。なお、土塁下部に幅6.8mの濠状遺構が存在することが判明した。その機能や築造時期をふくめ、新たな論議を提供することになった。
Other
内容記述 出版物
Other
内容記述 Publication
トピック 日本史, General History of Japan
データの言語 jpn
整理番号 57945
整理番号 http://doi.org/10.24484/sitereports.57945
対象時期 2013/03/31
対象地域
福岡県
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