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米山(2)遺跡10
https://jdcat.jsps.go.jp/records/221132
https://jdcat.jsps.go.jp/records/221132df27d50a-739a-493b-90d3-f66d61116485
| 公開日 | 2026-04-24 | |||||
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| タイトル | 米山(2)遺跡10 | |||||
| 作成者 | 佐藤,智生 | |||||
| 作成者 | 濱松,優介 | |||||
| 作成者 | 藤原,有希 | |||||
| 作成者 | 髙橋,哲 | |||||
| 作成者 | 荒谷,伸郎 | |||||
| Distributor | ||||||
| 寄与者 | 奈良文化財研究所 Nara National Research Institute for Cultural Properties |
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| URI | https://sitereports.nabunken.go.jp/146524 | |||||
| アクセス権 | open access | |||||
| Abstract | ||||||
| 内容記述 | 新青森県総合運動公園整備事業に伴う遺跡発掘調査報告 青森県埋蔵文化財調査報告書 埋蔵文化財(遺跡等)-発掘調査・分布調査・資料調査等 米山(2)遺跡は青森平野の東端、東岳西麓に所在する。付近一帯は現在、緑豊かな里山や田畑の広がりとともに、新青森県総合運動公園の諸施設が構えられている。本事業に係る発掘調査は、平成7年度の分布調査に始まり、平成8年度から令和5年度にかけて範囲確認調査及び本発掘調査が継続的に実施された。調査報告書の刊行は本書が10冊目であり、これまでの調査では縄文時代早期から中・近世にわたる遺構・遺物が発見されている。 本書は令和3・4・5年度の調査分をまとめたものであり、内容は縄文時代後期と中世の集落跡が主体となる。これらの遺構・遺物は、これ以前の調査同様、扇状地及び扇状地性低湿地の緩斜面上、標高30~40mで検出されている。 このうち縄文時代は、主に早期中葉の小集落、前期末葉の文化層、中期末の竪穴建物が散在する集落、後期初頭~前葉の文化層の存在などが知られていた。今回の調査では、十腰内Ⅰ群古段階における竪穴遺構らしきものを一部含む小規模な土坑群の存在も明らかとなった。あわせて、先の調査(県603集)で姿を現し始めていた後期後葉の環状集落像が更に明確化し、やはり県下有数の規模と内容を誇ることも判明した。より具体的には、集落の中心に環状掘立柱建物群、その周縁に竪穴建物・土坑群・粘土採掘場・捨場(遺物廃棄帯・集積場)が配置される同心円構造だったと考えられる。掘立柱建物跡の平面形状は六角形(亀甲形)であり、各建物跡の長軸方向が連なることにより長径75-80m、短径50~60m程度の環状掘立柱建物群を成していた模様である。その内外縁には竪穴建物跡や土坑、同じく外縁には捨場が部分的かつ広範囲に形作られ、やや離れたところには粘土採掘坑も存在する。更に南北に離れた場には、同時期とみなされる竪穴建物跡群が数棟を超える程度で分布し、これら全てを含む集落規模は北東ー南西方向で100m前後、北西ー南東方向で80~120m以上に及ぶ様子も明らかとなった。 他方、中世は、古代末ないし中世初期から室町時代にかけて約300年続いた外浜の拠点集落とみられる。但し、城館に類するような堀や土塁等の防御施設は、今日まで知られていない。その内部構造は、地形の高低や流路の有無などに応じて遺構密集地帯と無遺構地帯とに分かれ、屋敷地や作業用地が斑状に混在していた模様である。特に屋敷地内は、堀立柱建物跡・竪穴遺構・井戸・カマド状遺構・柵塀や溝などの区画施設で構成され、遺構の重複や多寡により継続性に差があったとみなされる。この他、火葬墓や土葬墓が点在しているが、遺構量および当時の人口に比して非常に少なく限られた存在だった可能性が高く、墓城形成も認め難い。本時代の遺物は、わずかな陶磁器片のほか、木製品やカマド状遺構から検出された炭化物が中心となる程度であるため、各遺構の具体的年代は概ね不明である。しかしながら、集落年代は、年輪や放射性炭素年代測定法の援用により、12世紀後半ないし13世紀前半から15世紀代までの300年程度の間、継続的に営まれたと推定される。放射性炭素年代では16世紀~17世紀前半を示す事例も少なくないが、これは中世集落の衰退以後に本段落から現代まで進展した耕地化の影響が関与している可能性も挙げられるため、その解明は今後の課題である。 なお、本集落の隣接地には、江戸時代に既に伝説化していた宮田古寺跡が存在する。更には、これに深く関わっているであろう樹齢800年とされている宮田のいちょう、外浜に唯一現存する念心寺の板碑など、周辺地域では稀な中世の信仰にまつわる事象も複数知られている。その名は不明ながら、本村は宮田古寺の信仰を支えた人々が暮らす場であり、野内川下流域右岸の拠点として、そして津軽・外浜・糠部を結ぶ道の分岐点となる要地として発展を遂げた集落だったと仮定される。 |
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| Other | ||||||
| 内容記述 | 出版物 | |||||
| Other | ||||||
| 内容記述 | Publication | |||||
| トピック | 日本史, General History of Japan | |||||
| データの言語 | jpn | |||||
| 整理番号 | 146524 | |||||
| 整理番号 | http://doi.org/10.24484/sitereports.146524 | |||||
| 対象時期 | 2026/03/11 | |||||
| 対象地域 | ||||||
| 青森県 | ||||||